「すごいね!」「頑張ってるね!」って
称賛・激励してくれる人はたくさんいても、
「まずいよ」「もうそんなに頑張るのやめなよ!」って
本気で叱って、諭してくれる人は、なかなかいない。
(そんなことない?)
でも、先日、そんなコトを私に言ってくれた人がいて。
穏やかで温か~いその人に、
脳天(百会)をつんつんしてもらって、他にも鍼を打ってもらって、
カラダは緩み、感情のツボのフタが外されちゃったんだろうなぁー。
その夜も翌朝も、涙がジュワーッと、地味に、でも、とめどなく、、、。
夜は、台所で洗い物をしながら、その音に隠れてビャーッと泣き、
朝は、息子の登校後、
ワンコと一緒に床にゴロンと大の字になってみた途端、
ボロボロと、、、
いつも開いていると思っていたココロ、
とっくに開放していたつもりだった感情、
酸いも甘いもさんざん味わって、
もう出ることもないのだろうと思っていた涙、、、
それらが、
「ああ、わてら、やっと自由にさせてもらえたね~!」
と言わんばかりに、
今あらためて開き、外され、いやというほど流れ出て、
私の周りを静かにぐるりと取り囲んだのでした。
「え!? あんたら、今さらこうしてゾロゾロ出てくるワケ!?」
と、なんだか、ワケわかんないワタシw
でも、ゆっくり思い出しながら、ミョーに納得がいったのは、
鍼の施術中、
「湿った深い森をひとり静かに歩いて、池や川の水に足をじーっと浸したいって、
カラダは言ってるよ」とその人に通訳してもらったこと。
ハッとした!
まさにそんな願望がもう2年も3年もハッキリとありながら、
「そんなコト、また今度ね」と先送りにし、自分をだまし、
「今、目の前のこと」を一生懸命する「フリ」をして、結果として
「目の前のこと」も「先のこと」もないがしろにしていたんじゃないか、と。
そんな「ツケ」を、カラダはこうしてちゃーんと提示してくるんだな、と。
生まれて初めてかもなぁ、自分に「ごめんね」なーんて言ったの(*”ω”*)
人にはすぐ謝っちゃうのにねぇ。
後から考えたら別に謝らなくたってよかった場面でも、
「ごめんなさい」を言っちゃうのにねぇ。
自分の主義主張はいつも後回し。
「もういいかげん、やめようよね、そういうの」
なーんて、もう一人の私が、私に言った日、、、(”ω”)
ありがとう、みさこさん!
あー、しかし、こういうのを「不意打ち」って言うのだろうなぁ。
鍼を打ってもらいに行ったのに、不意まで打たれた。。。アハハ!
あ、でも、鍼灸師さんは、
鍼を打ちながら、その人が気づいてないカラダやココロのアレやコレやを
不意打ちするのがお仕事なのかもね。
(違ったらごめんね、みさこさん!)
そして、入れる「スイッチ」は違えど、
「つんつん」して「どこかをオープン」する(結果として)役割
という意味では、
私がさせてもらってるイヤーコーニングも、全く一緒だな、って思いました。
「どこか」をつんつんすることで、
本人が気づいていない「何か」に気づいてもらう、
本人が感じたことのない「何か」を感じてもらう、
本人が意識したことのない「何か」を意識してもらう、、、、、、
それが、
「癒し」になるのか、
「慰め」に値するのか、
「解放」につながるのか、
は分からないけれど、
「耳」を通じて、その奥の、また奥の潜在意識に働きかけて、
その人の「今」に寄り添い、
「今」必要な意識や感情を本人がしっかり認識すること
のお手伝いをさせていただく、、、
そんなミッションが、イヤーコーニングにはあるんじゃないかと、
ぽわーんと思った一日でした。
……ところでね、この、私の「涙」を媒介に受け取ったメッセージ、
それは、13年前に亡くなった大好きだった祖母からの、
思いもよらない、「13年越し」の思いだったんです。
(詳しくは、長くなるのでまた別の機会に)
一本の「鍼」から、
13年前に死んだばあちゃんにまで広がった「つんつん」、
恐るべし「つんつん」、
でも、私はとってもうれしかった「つんつん」。
私も、いつか、どこかで、誰かの「つんつん係」を、
知らない間に、務めることができていたなら、幸せです💛