私はよく年配の女性から声をかけられます。
男性より女性にモテるタイプらしいです、笑。
一昨日は、伊勢市駅(旅行で来ています)のベンチで隣り合わせた老婦人から話しかけられ、東京から来たと言うと、「私も昔、東京にいたのよ」と、かつて20年ほど東京・原宿に住み、新宿・歌舞伎町で働いていたということを告げられました。
そして思い出したのは、昨夏の広島旅行。尾道の喫茶店で隣の席にいらしたご婦人が、やはり以前、東京暮らしが長かったという話から始まり、あそこに住んだ後はどこそこに住んで……と、彼女の半生を聞いている間にアイスコーヒーの氷も解け切ってしまうんじゃないか(笑)と思うような休憩タイムを過ごしたんでした。
私たちはみんなどこかでつながっていて、こうして隣り合わせた人や街ですれ違う人、スーパーのレジでお会計してくれる人とも、きっと、もともといろいろな接点がありながら、それが外に現れるものか、現れないものか、感じとれるものか、とれないものかによって、その人との関係性はもちろん、その時空間のあり方や、時にその価値は、全く違うものになる。
今回お隣さんになった老婦人も、昨年隣り合わせたご婦人も、別に運命を感じたとか、何か妙に惹かれる部分があったとかではないし、むしろ「あー、話長かった!」と、さよならしてちょっとホッとしちゃった自分がいたのも事実だけれど(笑)、だからこそ、この人たちとわざわざあの時、あの場で隣り合わせて、延々話を聴くことになったのはなぜ!?と、軽く思いを向けてみると、そこには自分自身へのメッセージが何らか隠されているように思います。
「ご縁」と言われるような、割とそこに驚きや喜びやありがたさを伴うものとして表現されることの多い関係性とは違う、「お隣さん」という、もっとライトで、別に嬉しくも悲しくもない、気づかなければ一生気づかないまま終わってしまう関係性が、無数に隣り合ったり、絡み合ったりしてるのが、私たち人間なんでしょうね。
滞在3日目の今日は志摩へ移動中。いま車中ですが、同行の母と息子は2人席に並んで座ったので、私の隣は空いてます。本日のお隣さんは、果たしてこれからくるのでしょーか?笑